2016年5月 野田学さんへのインタビュー

野田学さんは、呉服問屋である株式会社野田の社長であり、和の発信基地、レンタルスペース「わなびば333」の代表でもあります。1階はレストラン「わなびばKITCHEN333」。そこには訪れる方への嬉しくなるような配慮が隅々まで行き届いています。今回はそんな「わなびばKITCHEN333」でお話をお伺いしました。

小野(以下O)「先日、神尾えいじさんのご紹介で初めて『わなびば』さんにお邪魔させていただいたときに、『宣伝広告にお金はかけない、それはお客様にご負担いただくことになるという先代からの教えがある、そして口コミに優る宣伝はないと考えているため、目の前にいらっしゃる方に対し全力でお相手させて頂き、ファンになってもらう方が実は大切なこと 』とおっしゃっていて、とても印象的だったのですが、代々のファミリービジネスで引き継がれているスピリットは大事にしながら、野田さんの代で大きく業態が様変わりされたわけですよね。そのきっかけなどについてお聞かせ願いたいと思います」

 

野田(以下N)「はい、 祖父も父もお墓の中ですけど、たぶんビックリしていると思います。皆さん、伝統文化を扱っている業者さんだと、何か新しいことで皆さんに喜んでいただけることをしたいと言われるんですけど、2代目って守ってきた世代なので、それを変えるのはとってもエネルギーがいることで。何を若造が言っているんだっていう感じで終わってしまうんですよ。僕は30歳の時に社長になって、父親が他界したのが、37歳の時、 それまでは会長と社長という形でした。

その37歳の時に 初めて口答えして、オヤジから『もう来なくていい』と言われまして、その時、僕は3社の代表をしていましたから、辞表を3通書きまして」

 

O「何を口答えされたんですか?」

 

N「その時、父親 がナンバーワン、叔父がナンバーツーで、そのふたりが喧嘩したんですよ。それで、父親 としては、自分寄りの人間を社長にして手足にしたかったんです。だから、僕は叔父と喧嘩するために社長になったようなもんで。当時、父親は脳梗塞を起こして、目も見えないし、動けない状態で、そこ僕に白羽の矢が立って。

何年かかけて和解したんですけど、最後のころ、オヤジが『もうこんなことならいいよ、親族 含めみんなが仲良くなるために一生懸命やってきたのに、こんなんなら、会社をもう閉めちまえ』って。でも、僕は会社を閉めるために社長になったわけじゃないし、従業員もいますし、お客様だっていらっしゃる。僕は会社をよりよくするために社長になったんだから、守るばかりではなくて、求められるように変化を遂げていきましょうよと言ったら、『お前、何様だ』と」

 

O「何様だとおっしゃった」

 

N「息子のくせに何偉そうに言っているんだと言われて、『いや、僕は息子ではあるけれど、会社の社長です。口答えと言われても、モノ申さないといけない時は言わなければいけない』と言ったら、『そんなら、もう来なくていい』ってことになっちゃいました。 それで、 妻と相談して会津まで下見に行きましたよ」

 

O「また、なんで会津だったんですか?」

 

N「そっちの方が自然があるし、田舎が好きだったので。諍いのないところに行きたかったんですよね。会社も1か月半くらい休んで。でも、会社としては代表権のある社長がいないっていうのは・・それで、オヤジが戻ってきてくれと。戻るんだったら、ひとつ条件があるんだけど、僕の話を会社の代表者の話として聞いてほしいと告げたところ、父親  からは、お前は新しいこと、新しいことしようとするけれども、伝統を守ってきているという大切さもわかってほしいと言われて、じゃ、わかりましたっていうことで」

 

O「じゃ、お父様は、それ以来、野田さんの新しいことをやりたいっていうことに耳を貸してくれるように・・」

 

N「くれないですよ!」

 

O「あらら??」

 

N「従業員の中には父親に 雇用されている者もいて、僕のことよりも父親の顔色をうかがっている人もいた ので、色々やりにくかったんです。代表権も何もあったもんじゃない」

 

~~野田さんにはお兄様がいましたが、体が弱く、早くに他界されてしまいした。野田さん自身は幼稚園の先生志望で、大学もその方面に進学されています。卒業後、就職の段階で悩むのですが、(株)野田に入社する道を選びました。お兄様は後継者として公表されていましたが、野田さんが27歳の時に亡くなってしまいます。~~

N「父親と喧嘩していた叔父でしたが、叔父も会社をよくしたかったんですよね。結局は 父親が頑固すぎたんです。守ることに一生懸命で、耳を貸さない。僕、叔父に言ったんです『おじさんの気持ちはわかる、やろうとしていることもわかる。でもやり方が違う。ナンバー2の役割として頭である父親をサポートしてくれないと会社は分裂してしまう。従業員はどこに行ったらいいのかわからない。みんな苦しんでいます』、でも叔父は『お前は俺と 父親のどっちにつくんだ』と言ってきました。まるでドラマです」

 

O「戦国ものみたいですね(笑)」

 

N「でも、僕は父親 につきます、それが会社としてのルールですからって言いました。それで、30歳から 37歳の約7年は裁判沙汰になる、ならないを行ったり来たりしながら 色々と・・だんだん僕も頭の中がおかしくなって死にたくなっちゃったんです。居場所がどこにもなくなってしまって、いつでもマンションから飛び降りる準備ができてた。この状態から逃げ出したい・・でも、マンションの片方の扉の向こうには子供もいますし、妻もいますし。会社には従業員もいますし。ほんのちょっとだけ責任感が勝っていたんで生きながらえたんですね。

最後には父親と和解して、 半年後に他界しまして。そうなってみると、わかったのは、それまでも社長として色々自分でやっているつもりだったんですけど、全部【 父親の責任】にできるポジションだったんですよ。 つまり反発していた父親に守られているってことがわかったんです」

 

O「お父様が亡くなられた後にわかったんですね」

 

N「鉛筆1本買えなくなっちゃったんですよ、経費で。会社の経費で買うかどうか、その判断がプレッシャーでできなくなって。自分で物事を決めるっていうこと、責任をとるということの大きさを感じましたね」

 

O「ある意味で貴重な気づきですよね」

 

N「そうなんです。それに社長としての経営学をまったく学んできていないんです。幼児教育しか学んできていませんから。人脈もなし。友達もゼロ」

 

O「着物の関係のお仕事ですよね」

 

N「そうです、着物をメーカーから仕入れて販売する、 問屋ですね」

 

O「名実ともに社長になられたころの和服の市場っていうのはどうだったんでしょう?」

 

N「最悪です。僕が20歳で入社したころ、バブルが弾けて、それからずっと右肩下がり。流通の中で問屋っていうものが段々必要ではなくなってきているわけですよね。ネットで写真を見て電話1本で注文すれば、次の日には届く。そんな時代ですから」

 

O「着物業界全体が縮小してきている?」

 

N「きています。今も下げ止まらないですね。若い方で、最近着物に興味をもって着てくださる方が増えてはきていますけど、リサイクルがほとんど。 そんな中でうちが生き残ってこられたのは、委託をしない、現金卸問屋で、貸し倒れが一切なかったから。なので、価格的にも抑えることができたんですけど、業界全体は悪い流れ、悪い流れに入っていたんですね。その中でどうやって生き残っているかはずっと模索していたんですけど、まだまだ蓄えもあったし、余力もあったので、なんとかなるよねーできちゃったんですよね」

 

~~野田さんは経営者の立場になってあることを心に決めます。それは数字をおいかけるのはやめようということ~~

 

O「それはすごい」

 

N「経営者として数字を追いすぎると、本来やりたかったことからずれていくので。数字は数字として抑えるんですけど。役員会議でも部長会議でも、皆さん、楽しそうじゃないんですよね、そりゃね、社長、副社長から数字がどうのこうのって言われたらね。でも、外商しない、貸し付けない、宣伝もしないって言ったら、どうやって売り上げを立てていくかっていったら、お客さんが来てくれるのを待つしかないですよね。当時、うちが決めているルールがあって、お客さんに電話をしちゃいけない、勧誘もしちゃいけないっていうのがあった。でも、僕はそれは囚われていることだと思うので、変えるべきところは変えなきゃいけないって。それで、社長になったとき、お客さんに電話をしようって。ひまだし」

 

O「ひまだし・・(笑)」

 

 

N「それまで毎月売り出しをやって北海道から沖縄までいらっしゃるお客様にDMを送っていたんですよ。まず、そのお客様に電話をしてみようって言ったら、『もう18年前に廃業してます』って。そういうお客様に毎月DMを送っていた・・。社長になってすぐに倉庫を洗ったんですよ。倉庫に無駄なものがないか、そうしたら包装紙から箱から隠すようにあったんですよ。もうけのカスですって・・カスですって言われても、 これをお金には変えないと意味がない、捨てるのもお金かかる、ハンカチとか買ってきて倉庫にあった贈答用の箱に入れて少しでも利益をのせて売って、倉庫を空にしましたね」

~~社長に就任し、色々な無駄を整理した野田さん、しかし、その後、あの東日本大震災が起こります。東北のお客さんが軒並み廃業に!会社には当時50名ほど従業員の方がいました、いったいどうしたらいいのか、廃業するのか、倒産するのか、それとも。。野田さんは考えに考えます。~~

 

 N「30年50年働いてきてくれた従業員の人たちのリストラは殺人行為だから、やりたくなかったんです。でも、ある日シャッターを閉めてしまったら、それは裏切り行為。リストラすれば退職金を出せる。閉めちゃうとそれも出さないことになる。考えて、考え抜いた末に全てを みんなに正直に話そうと。。せめて退職金は出したい、ずっと世話になった人たちなので。退職金計算したら数億かかるんですよ。でも、払えるだけの余力はあったんで、それで皆さんが生活を立て直すことはできる。3週間くらいかけて従業員全員と話して『辞めてください』っていうお願いをしたんです」

 

O「皆さんのリアクションはどうでしたか?」

 

N「誠意をもってお話したら、誰一人としてケンカ別れした方もいませんでしたね。10年後に遊びに来れるお店にしてくれるのであれば辞めますとおっしゃってくれたんで」

 

~~全員をリストラした後に数名の方を再雇用されて呉服問屋である(株)野田を継続させた野田さん。会社として身軽にはなったものの、言ってみれば「なんとか生きながらえた状況」。野田さんは「さあ、これからどうしよう」と考えていました。そんな時、人生を大きく変えるきっかけとなる出会いが!~~~

 

O「今、1階はレストランを経営されていますが、以前は、呉服問屋さんだったんですよね。大きく変えるきっかけになったのはなんでしょう?」

 

N「2012年の2月に神尾さんと出会ったことです」

 

O「神尾さんとお父様が」

 

N「そうです、神尾さんから聞いた話ですけど、神尾さんが 東海銀行の営業マンだった頃、父親によくしてもらった。育ててくれたのはあなたのお父さんなんだ』と。最初、神尾さんから手紙と神尾さんが書いた本が送られてきて『紆余曲折あったけれど、社長のおかげでなんとか独り立ちできました。そのお礼もかねてお目通りしたい』と。でも、父親は他界していたので。。すると、神尾さんはお線香をあげさせてほしいということでいらしたんです。初対面で僕はガチガチに緊張していました。今まで僕が社長になってから僕とアポを取る人って僕から何かを取ろうとする人ばっかりだったんですよ。いろいろな営業とか。でも、神尾さんと会った時、え、この人、なんなんだろうな?今まで会った人と違う。人と会うことに不慣れだった僕が3時間くらい話を聞いてもらったんですよ。今まで溜めていた苦しかった想いとか、「それで?そうなんだ。どうしたいの?苦しかったんだね」って、僕は、この人のところには僕の居場所があるって感じがしたんです」

 

O「えええ!素晴らしいー」

 

N「僕はあなたを応援するよ、お父さんにお世話になったしって。初めて会社と家族以外に自分の居場所があるっていう感覚はとても温かいもので、社会で闘うために、身を守るために纏っていた 鎧を脱ぐことができたんですよ。すると神尾さんが 『僕の知り合いを紹介するから会ってみなさい』って言うんですよ。翌月の3月が売り出しだったんですけど、神尾さんはお店にどんどん人を連れてくるんですよ。 神尾さんからは『たぶん、この人たちは着物に興味はないし、買わないと思う。だけど会え』って。意味がわかんない。でも、神尾さんが言うので間違いないって。だから最初は一生懸命、着物の説明していたんです」

 

~~最初は着物の説明をしていた野田さんでしたが、そうするうちに何のためにこうしているのか?そして、その疑問は、いったい自分は何をしたいのか?につながっていきます。野田さんは、はたと気づきます、自分がやりたいこと、それは着物を使って『和』を表現することだと。~~

 

N「当時は『和』って何?て聞かれてもわからない。でも、『和』って人を癒す力があるのかなって。それを醸し出すことができる着物を使って人を癒すことができたら、面白いんじゃないかと。それで、後半からは着物を使って皆さんに和を提供したいんです・・と。最後に来た方が、能の小鼓の先生だったんですけど、『それなら、わかりやすく落語会でもやろうか』と。『落語を聞いてプレゼンスキルを学ぶ』っていうセミナーをやろうと。わけのわからないまま、ゴールデンウィーク明けにやることが決まったんです。当時の4階の倉庫のスペースが空いていたんで」

 

~~とんとん拍子にセミナー開催が決まったものの、宣伝方法もわからない、人脈もない野田さん。神尾さんと能の先生は、そういうことは自分たちがやるから、野田さんは場を作ってくれ・・と。そこで、野田さんは、様々な工夫をして噺家さんが座る高座を製作。噺家さんが気持ちよく話してくれる場を作ることができれば、皆さんはきっと喜んでくれるだろうと考えたのです。結果、その高座は素晴らしい出来栄えで、噺家さんを感動させることになります。~~

 

N「本当に皆さん、喜んでくれて、すごく盛り上がったセミナーだったんです。セミナーは15時 に始まって18時迄。その後、懇親会があったのですが、懇親会が終わったのは0時過ぎ!みんな終電めがけて慌てて帰りました !」

 

O「居心地がよくて!」

 

N「居心地がよくて!その光景を見て、初対面のおっさんたちが腹を割って話ができる、これは間違いなく『和』の力だ!と思ったんです。やっぱり、『和』にはなんかあるんだ!って」

 

~~セミナー後の打ち上げで能の先生に『野田さん、動かなきゃ、お前はしゃべれるんだから、野田塾をやればいい』『自分にはめている足枷をいい加減はずせ』と懇々と言われます。自信のない野田さんは、一晩懸命に考えます。そして、ひとつの結論に達します~~

 

N「自分に何ができるんだろう?考え抜いた時、僕には神尾さんっていう居場所ができて、こうして40人も人が集まって喜んでくれる時間が提供できた、ひょっとしたら、僕にも誰かに居場所を提供できるんじゃないかって。それならできる、それならやりたいと。僕みたいにモヤモヤしてて、自分の人生を輝かせたいんだけど、勇気がなくて一歩を踏み出せない、そんな人に居場所を提供して、輝くことができたら、そんな素晴らしいことはない。ちょうど場所も縮小したことにより空いているわけですし 」

 

~~野田さんは、4階のスペースをみんなが遊んだり、語り合ったりできる秘密基地にしようと決めます。そして、『和』をテーマにした居場所作りが始まったのです。最初は呉服の展示会場として利用されていました。そうして利用した方、ひとりひとりに野田さん自身の想いを丁寧に伝えていきました。野田さんの想いが伝わっていき、そこからどんどん利用者の輪が広がっていくのです。~~

 

 

O「でも、その時点ではまだ1階は呉服問屋さんですよね?」

 

N「そうです」

 

O「また、1階がガラっと大きく変わったのは?」

 

N「1年近く4階のスペースの仕事をしてきて、そんな感じで利用される方が増えていったので、使われる方も波長が合うし、イベント自体に来られる方も波長が合うわけなんですよ。なんて気持ちのいいストレスフリーな仕事なんだろう、死にたいとまで思った自分がいたのに。誰かのために働いて、喜んでもらって、ありがとうって言ってくれてお金まで払ってくれる、最高だー!って思ってたんですけど、ハタと気づいたら居心地が良すぎて慢心している自分に気がついたんです 」

 

~~野田さんは自分自身、そして、スペースとしても、魂を磨くことに気持ちが向かっていきます。ここは大変興味深い視点です。多様な価値観との出会い、言ってみれば異質な物、自分たちとは違った部分が尖っている存在によって互いに研磨し合うことに向かっていくのです。そういう人たちと出会うためにはどうしたらいいのか?飲食店を経営すれば、そうした方たちとの出会いがあり、学びがあるだろうと考えた野田さん。お金や異性を目標に生きている人たちのハートに、ゆとりや癒しをほんの少しでも流し込んでいくこと・・・~~

 

N「その装置として飲食店をやっていこうと。仲間に安心安全な食を提供できたらとも考えましたし。『わなびば』全体に共通しているキーワードは『ママ』ですね」

 

O「そうですね、それと小さいお子さん」

 

N「今のママさんたちは理想のママ像に押しつぶされそうになっていて、助けてくれる人がいない、自分のままでいていいんだよと言ってくれるところがない。じゃ、それを僕たちができたら、ママたちが喜んでくれるんじゃないかなーって。ただ、僕たちにとっては『調和』がテーマでもあるので、社会って色々な世代の方が共存しているんで、キッズカフェにはしたくなかったんです。年配の方たちも一緒に食事ができるような。打ち合わせをしている方にも使ってもらえるような。。。配慮し合うっていうことが、とても希薄になってしまっているので、お互いに少しずつ、譲歩して譲り合えば心地よい空間ができるでしょっていうことを提案したかったんです。」

 

O「素晴らしいですね!これから何かやっていきたいと考えられていることはありますか?」

 

N「子供食堂ですね。ママたちが共働きで子供たちが一人でご飯を食べる、孤食っていうんですけど、うちは月2回水曜、夕方までの営業なので、その後の時間を使って孤食に対応できるような子供食堂をしていけたら・・と。まだ、これからボランティアの方を募っていくことになるんですけど。それが次のステージですね。その後は、飛び越えて外に出ていこうと思っているんですけど。ライブハウス兼劇場」

 

O「ええええ!どこに?」

 

N「いや、まだ全然わかんないです。ライブハウスって地下に降りてって、薄暗い中でって感じじゃないですか。それを何とか路面店でガラス張りの中でできないかなって。」

O「おもしろいー」

 

N「昼間は幼稚園のお遊戯会、ママさんたちはフラのお稽古だったり。場を作ったら、今度は表現していこうよって」

 

O「どんどん広がりますね」

 

N「お酒だけじゃなくて、美味しいお食事も提供できて・・何年先になるかわからないですけど、ここが落ち着いてから ・・ですね」

 

O「おもしろーい、今日は本当に楽しいお話、ありがとうございました!」

 

インタビューに登場する神尾えいじさんは、株式会社インペリアル・サポートの代表取締役であります。ホームページはこちらです。http://www.sales-110.jp/

 

わなびばKITCHEN333 http://wa-kitchen333.jp/

わなびばプロジェクト http://www.kimonodanet.com/

4階のレンタルスペースはキッズコーナーを併設しています。利用されるママとキッズが持ち寄り、おもちゃも随分増えたとか・・

 

レンタルスペースでは、映画の上映会なども開催されているとのこと。キッチンもついているので、料理教室まで開けるそうですよ。広々ノビノビしたスペースです!

カウンセリングや占いなど対個人のセッションをされている方や少人数のミーティングなどに利用できるブースもありますよー。お子さんがいるので自宅にお客様を呼ぶのは難しいという方にとってうれしいのは、フロアのセンターに子供たちが遊べるスペースがあることです。素晴らしい!

ブース内はこんな感じ。1対1だけではなく、5人くらいで利用できるブースもあります。東京都内で活動のためのスペースをお探しの方には最適ではないでしょうか!